秋晴れと笑い声

みおさん(40代前半・女性)
2021年10月に無痛分娩で長女を出産。
想いをつむいだ日: 2022/10/3

三年目の結婚記念日

 妊娠がわかったのは、二〇二一年二月二十二日だった。夫婦ふたりの生活も幸せだけれど、子どももいたらいいねと話していた。「いつきてくれるかな」と待ち望んでいたわたしたちが、妊娠を知ったのが、ちょうど三年目の結婚記念日。幸せで、うれしくて、ふたりで飛び上がって喜んだ。

 妊娠の経過はよく、つわりもそれほど重くなかった。妊婦健診では毎回「順調です」と言ってもらえる。高齢出産で不安もあるけれど、幸せな妊娠期間を過ごすことができた。

 出産予定日は十月二十九日。その前日に、計画無痛分娩で出産することになった。無痛分娩を選んだのは、痛いのが苦手だからだった。産むときに母親が苦しむと赤ちゃんも苦しいという話を聞いたことがある。無痛分娩で痛みが和らぐなら、きっと赤ちゃんにとってもよいことだと思った。
 出産が近づくにつれて、夫婦の会話は「もうすぐだね」「楽しみだね」ばかりになる。
「あと少し、ゆっくり準備していてね」
 大きくなったお腹を撫でながら、ベビちゃんに話しかけた。生まれてくるのが心から楽しみだった。

破水

 十月二十二日、最後の妊婦健診。経過は順調で「来週の入院に備えましょう」と言われた。もうすぐ生まれる。もうすぐ会える。一人でゆっくり過ごすのもあと数日なんだと思う。

 ホテルのアフタヌーンティーをゆったり楽しんでから、家に帰ってPCを開いた。産休に入ったものの、まだ仕事の打ち合わせがいくつか残っている。タエさんとの打ち合わせを終えて席を立つと、なんだか漏れた感じがした。
 トイレに行ってみたら、水のようなものが出てきている。これって、もしかして。
「おしるしかな、いや……破水したかも」
 部屋に戻ってパパに声をかけると、「え、破水?」と驚いて近寄ってきた。おしるしはきていなかったので、どちらなのかわからない。ちょろちょろ出ている感覚がある。
「ずっと出てる。破水かもしれない」
「大丈夫? 痛い?」
「まだ全然痛くない」
「一応、病院に電話しようか」
 うんと頷いて、スマホを取り出した。状況を伝えると、入院の準備をしてくるように言われた。すでに大きな荷物は準備してある。母子手帳や診察券も入れながら、頭の中で忘れ物がないかチェックした。
「タクシー呼ぶね」と言って、パパも準備を進めている。どのタクシーを呼ぶか事前に伝えておいてよかった。
 破水すると、お腹の赤ちゃんが影響を受けて苦しくなってしまう場合もあると聞く。病院で検査をしてもらうまでは安心できない。いざとなると冷静ではいられなくて、ひとつずつ手順を確認しながら進めた。

 タクシーが到着すると、パパがバスタオルを広げて、座席シートが汚れないように敷いた。ゆっくりそこに座る。お腹が大きくなって、タクシーに乗り込むのも一苦労だった。入院用のスーツケースとバッグをトランクに載せたパパも一緒に乗って、「○○病院にお願いします」と運転手に伝えた。パパがいるタイミングでよかったなと思う。

 まだ全然痛みはなくて、実感が湧かない。タクシーの窓から、後ろに流れていく夜の街の光をぼんやり見ていると、お腹がすいていることに気づいた。そうだ、まだ夜ごはんを食べていない。
「ああ、蟹寿司を食べたかった」と心の中で呟く。
 妊娠中、大好きなお寿司をずっと我慢してきた。唯一食べられるのが蟹寿司。今日も、お母さんが蟹の太巻きを買ってきてくれていた。楽しみにしていたのに。あれを食べてから家を出ればよかった。
 悔やんでもしかたがない。病院の近くにコンビニがあるのを思い出した。
「コンビニに寄ってもいいかな?」と、パパに聞く。蟹寿司はむずかしくても、せめて夜ごはんを食べたい。
「うーん、まずは病院に行った方がいいと思うよ」と冷静な返事がくる。「ベビちゃんの様子も気になるし」
「そっか、そうだね」
 まあそうだよねと思って頷いた。まだ痛みはないから気持ちに余裕があるけれど、赤ちゃんが苦しくなっているかもしれない。パパは自分の体じゃないから、余計に心配なのかもしれないなと思った。いつもベビちゃんやわたしのことを一番に考えてくれる、やさしいパパ。

 十五分ほどで病院に到着した。警備の方や助産師さんたちが親切に迎えてくれて、ほっとする。
 少し不安に思いながら診察を受けると、間違いなく破水だと言われた。その場で入院が決まる。感染対策のためにパパは病室には入れないので、ここでお別れだ。
「それじゃあ、頑張ってね」と、パパが微笑む。
「うん」
「次にここを出るときは三人なんだね」
「そうだね」
 パパに会えるのはベビちゃんが生まれた後なんだなと思うと、不思議な気持ちだった。来週まで産むつもりがなかったから、なんだか気持ちが追いつかない。

 案内された個室はとても静かだった。病院内には他の妊産婦さんたちも泊まっているはずなのに、まるで気配を感じない。
 荷物を整理して落ち着くと、助産師さんに渡されたコンビニの袋を開けた。病院の夕食の時間はすでに過ぎていたから、パパに差し入れを買ってきてもらったのだ。袋を開けると焼きうどんが見えた。このあたりはオフィス街だから、コンビニの品揃えもあまりよくないんだろう。あー、ほんと蟹寿司、食べたかったな。未だに悔やまれる。
 袋の中を覗くと、おやつもいろいろ買ってくれていた。一つ取り出すと、チョコブラウニーだった。シンプルなデザインの包装に『世にもおいしいチョコブラウニー』と書いてある。その後、わたしのお気に入りのお菓子になった。夜ごはんとおやつを食べて、個室のテレビを見ながらゆっくり過ごしてしていると、お腹の中が震えた。
「しゃっくりしているの?」
 思わずふっと笑ってしまう。ベビちゃんは今までも夜になるとよくしゃっくりしていたけれど、こんなときもマイペースにしゃっくりしている。破水に気づいていないのかな。いつもと変わらなくて、なんだか肩の力が抜けた。
 破水したものの、まだ陣痛もきていない。体調の変化もなかった。出産は、早ければ土日、遅ければ月曜日になると言われている。
「会えるのが楽しみだよ。もう少し待ってくれるとうれしいなー」と小声で話しかけた。
 パパが、月曜日に病院でPCR検査を受ける予定になっている。検査で問題がなければ、出産時の立ち会いや面会の時間を長く取ってもらえるらしい。できれば月曜日まで待ってほしいと思った。

 ベッド脇に置かれた案内を見ると、入院中の食事のメニュー表だった。日曜日の欄にスモークサーモンがあるのを見つけて、テンションが上がる。バースプランに「生まれた直後にお寿司を食べたい」と書こうかと思ったくらい、お寿司を食べたかった。もちろん書かなかったけど。
『日曜のランチの献立にスモークサーモンが! 久しぶりにスモークサーモンが食べられるのか……! 楽しみ』
 ツイートして、スマホを置く。
 眉ティントをしてから寝ようと思っていた。出産直後に写真を撮るとき、せめて眉だけはあるようにしたい。髪の毛をセットしたりメイクをしたりする時間は当然ないだろうけど、せめて眉だけは、と思っていた。眉ティントは絶対に忘れないようにしようと、入院セットにも早々に入れたくらいだ。眉が太くなるので、できれば人に見られたくない。そう思って助産師さんを待っているのに、「後でまた来ますね」と言ったきり、一向に現れる気配がなかった。時計を見るともう二十三時。もうやろうと眉ティントをして、「これで大丈夫」と安心して就寝した。

足湯と麻酔

 目が覚めると朝だった。いつもより体が軽い。十月末のわりにはまだ暑くて、エアコンのクーラーをつけて寝た。暑かったり、逆にクーラーが効きすぎて寒かったりしたけれど、ぐっすり眠れたのだと思う。臨月に入ってからは夜中に何度も目覚めていたけれど、昨夜は一度もトイレに行かなかったからだ。破水してお腹に余裕ができたのかもしれない。

 顔を洗って再びベッドに横になると、個室のドアが開いた。
「おはようございます、眠れましたか?」
「はい」
「よかったです」と微笑んだ助産師さんは、検温や血圧測定をてきぱきとこなしながら説明をする。
「このあと朝の診察があります。それと、今日、無痛分娩の麻酔をしますね。朝昼はごはんが出ません。ただ、出産は午後になりそうだから、旦那さんにごはんを買ってきてもらってもいいかも」
 そう聞いて、さっそくパパに連絡をした。
『何を食べたい?』と聞いてくれる。
『スタバのラテと、松屋のカレーが食べたい』
 返信してしばらくぼーっとしていると、診察に呼ばれた。
「子宮口はまだ開いていませんね。日曜日が本番になるでしょう」
 内診をした先生が、カーテンの脇から顔を出して説明してくれる。破水したけれど、すぐに生まれるわけでもないんだ。そう思ったのが顔に出たのか、先生が微笑んで言い添えた。
「まだ赤ちゃんが下りてきていないですからね。なるべくベッドで座って待つようにしてみましょう」

 部屋に戻って、アプリで陣痛カウンターをつけ始めた。まだ生理痛くらいの、耐えられるくらいの痛み。まだまだかな。
 ナースステーション経由で、パパから朝ごはんが届く。ベッドの上に座って、テーブルに松屋の袋を置いた。個室にカレーの香りが広がる。
「あっ」
 開けるときにカレーが撥ねて、産院着についた。やってしまった。
 さすがにカレーがついたままだと恥ずかしいので、食べ終わってからナースコールを押した。
「あの、カレーがついちゃいまして。替えていただけますか?」
 差し入れでカレーを食べていることはすでにばれている。助産師さんは「おいしそうな匂いですね」と笑いながら着替えを持ってきてくれた。
 病院では出ないと言われていたのに、連続で昼ごはんも出た。焼き魚とサラダとスープ。思わず写真を撮る。噂通り、すごくおいしいごはんだった。

 しばらくすると、おやつも運ばれてきた。紅茶とバウムクーヘンという、本格的なおやつだ。お昼ごはんを連続で食べたばかりなのに、おいしくてぺろっと食べてしまう。
 一人で過ごしている時間が長い。点滴とモニターをつけているので、あまり動き回ることもできなかった。赤ちゃんが下りてくるように、言われた通りベッドに座って過ごす。個室には大きな窓があって、外が見えるのが心地よかった。ベッドから見える位置に、なんだか不思議な絵もある。なんだろうと思って眺めると、枠いっぱいに青いゾウさんが描かれているのだとわかった。

 コンコン、とドアをノックする音が聞こえた。
「ご体調はいかがですか? よかったら、足湯しますか?」と、助産師さんが顔を出す。
 あ、そんなことしてくれるんだ、ラッキー! 病院によっては、マッサージをしてくれたり、美容院があったりすると聞く。ここは食事で選んだだけで、足湯もできるなんて知らなかった。ベッド近くに置かれた桶から、湯気がふわっと上がる。
「よかったらアロマも入れますか? ラベンダーの香りです」
「お願いします!」
 産院着の裾を少し持ち上げて、足先をつける。
「はあー、きもちいいー……」と思わず声が漏れた。
「足がむくみますよね」
 血が巡って、体がぽかぽか温まってくる。気持ちがいい。ずっとシャワーも浴びていなかったのでうれしかった。

 足湯の後も、なかなか子宮口は開かず、バルーンを入れることになった。子宮口が開くと、自然にバルーンが落ちてくるらしい。「夜のあいだは入れておいて、きっと明日くらいに落ちると思います」と言われた。
 背中に、麻酔のためのカテーテルも入れてもらった。どうやら、先に背中に管を刺して、いつでも麻酔を入れられる状態にしておくらしい。麻酔科医の指示があれば、ボタンを押すだけだ。入院前から、背中に刺すのは痛そうで怖かった。でも、ほかにも点滴や何やらいろいろ体につけられている。そこまで怖い気持ちはなくなっていた。もう、なるようになれ。
 刺してから、試しに麻酔を入れられる。
「どうですか?」
 お腹の下のほうだけ触られると、麻酔が効いて何も感じなかった。それなら下半身すべて動かないのかなと思いきや、足はちゃんと動く。すごいなと感心する。こんなに効くなら、出産も安心だ。
「立ち上がってみてください。麻酔が効いたままになっていないか、確認しますね」
 うん。問題なし。
「あとは出産のときに入れるだけ。もうちょっと頑張りましょうね」
 お産が進むようにある程度痛みを我慢して、陣痛が強くなってきたら麻酔を入れると説明された。

 明日からが本番かなと思いながら、ゆっくり夜ごはんを食べた。バルーンで強制的に子宮口を開くかたちになるので痛みが強いという話を聞いたことがある。今夜は痛くなるのかなと少し不安になった。
 すると、夜七時二十分くらいにトイレに行ったときに、バルーンが急に落ちた。痛みもまったくない。ちゃんと入っていなかったのかな。あわてて助産師さんを呼んだ。
「三センチくらい! 開きましたね、よかったです。陣痛がくるまでもう少しですね」
 確認してもらうと、子宮口がかなり開いていた。すんなり開いてくれたので、全然つらい思いをせずにクリアできてしまった。よかった。
 子宮口が開いてきているなら、そのまま出産ということもあるのかな……と思うが、そういうわけでもないらしい。睡眠導入剤を渡した助産師さんは、「それでは、また明日」と言って去ってしまった。

ラベンダーの香り

 十月二十四日。目が覚めてアプリで陣痛カウンターを見ると、夜のあいだも十分間隔で陣痛がきている。そのわりに寝不足な感じはしない。出産が近づいてハイになっているのかもしれない。
「陣痛間隔は病院側でも測定しているから、見なくても大丈夫ですよ」と言われたけれど、カウントするのが純粋に楽しかった。何回も乗り越えた記録は、励みになる。
 痛みは、まだ耐えられるレベルだ。そこまで痛くなくても、十分間隔で痛みがくるのはなかなかしんどい。陣痛って、めちゃくちゃ痛いと聞く。いつまで続くんだろう。あと何倍痛くなるんだろう。いつ生まれるのかと思いながら、一生懸命カウンターをつけた。
「三センチ。昨日と同じ。でも、だんだんうすくなってきているよ」と、朝の診察で助産師さんは言った。「明日になるかな、今日はまだ生まれないかもしれないですね」

 リラックスして過ごしているうちに、少しずつ陣痛が強くなってきた気がする。もう、待つしかなかった。助産師さんがちょこちょこ様子を見に来たり、腰をさすったりしてくれるのが心強かった。
 四角いコットンにアロマオイルを染みこませたものも、持ってきてくれた。ラベンダーのいい香りがする。
 香りのよい入浴剤やハンドクリームが好きだけど、妊娠中はやめていた。とくにラベンダーの香りはよくないと書かれているサイトを見たことがあって避けていたから、久しぶりだ。それで殊更にいい香りに感じるのかもしれない。陣痛がきたときにコットンを顔に近づけると、お腹の痛みよりも香りに意識がいって、すごくいい感じだった。
 うれしくて、写真を撮ってパパに送った。
『助産師さんが、ラベンダーの香りのコットン持ってきてくれた』
 ルンルンの気持ちで送ったのに、薄い反応がきた。改めて写真を見てみると、確かに映えないなと思う。ただの汚れたティッシュみたいだ。わたしとしては、これすごいうれしいんだけど。うーん、伝わらないか。

 パパには、「旅行とか行ったら?」と話していた。産前産後の入院中に面会はできないし、妊娠中ずっとわたしとベビちゃんを第一優先に気を遣ってくれていたパパに、一人の時間を満喫してほしいなと思っていた。
「めいいっぱい、自分の時間を満喫してほしい」
 そう伝えたわたしに、「気持ちはうれしいけれどできない」とパパは言った。いろいろ心配しているのかもしれない。会えるわけじゃなくても、駆けつけられる距離にいる。そわそわしているんだろうなと思いながら、こまめに近況報告のメッセージを送った。

 その後、促進剤を打っても、子宮口は三センチから五センチに開いたくらいだった。
「子宮口は開いてきているけれど、まだまだ時間がかかりそうだね」と助産師さんは言った。「赤ちゃんも、たんこぶつくって頑張っているよ」
 どうやってたんこぶつくっているって助産師さんはわかるんだろう。頭をぶつけてるってことかな。どれだけ時間がかかるか想像がつかなくて、またパパにメッセージを送った。
『もう少し進んだら麻酔を入れられるかも。夕方か夜かな……』

 すると、その直後に、強い痛みに襲われた。なにこれ、めちゃくちゃ痛い。これまでとは桁違いに痛い。なんていうか、体が全部出て行ってしまうような痛みだ。ほんの少し前に、助産師さんに「麻酔はもうちょっと頑張ってからだね」と言われていたから、今はまだ呼んじゃいけないのかなと思って我慢する。もう少し耐えよう。
 ところが、すぐに同じくらい強い痛みがくる。「痛い!」と叫んで、ベッド脇を探ってナースコールを押した。
 これまで穏やかに過ごしていたのが一変して、怖いくらいの感覚だった。どうなっちゃうんだろう。これがいちばんの痛みなのか、さらに痛くなっての出産なのか。恐ろしいほどの痛みに襲われて絶望を感じる。

 助産師さんに診てもらうと、さっきまで五センチくらいだった子宮口が全開になっていた。助産師さんも、すぐに先生や助産師さんたちに連絡をしている。
「旦那さんにも電話してください」
 少しだけなら出産の立ち会いができると言われ、パパに電話をかける。
『どうした?』
 すぐにパパは出てくれたのに、あまりの痛みに、頭が真っ白だった。なんて言ったらいいのかわからなくて、スマホを持ったまま固まってしまう。
「子宮口が全開です、すぐに来てくださいっていうんだよ」
 横で助産師さんが耳打ちしてくれたので、その通りに伝えた。
 そこで麻酔を入れてもらった。なかなかすぐには効かない。
「移動しますね」と声がして、体が動かされた。同じフロアのLDRへ連れて行ってもらうらしい。廊下を移動するあいだも痛い。痛い。まわりを気にかける余裕もなく、痛みに叫んだ。
「麻酔を入れたから、もうちょっとだよ」
 頭の上で、励ましてくれる助産師さんの声が聞こえる。スマホを見ると、パパからメッセージがきていた。
『停電で上がれん。四階の非常階段しまってるし』
 今日は、病院が停電になる日らしい。朝から、エアコンもテレビもつかなかった。
『裏から』
『案内してもらえる』
『はずって』
 陣痛に耐えながら、途切れ途切れに返信をして、電話もかけた。ちゃんと来れるのか不安になる。

 三十分ほどして、ようやく麻酔が効いた。さっきまでの強い痛みが嘘のように消える。ほんと無痛分娩にしてよかったなと思う。
『麻酔きいてきたよ』と送ると、
『いけそう』と、パパからもメッセージがきた。
 なんとか辿り着けそうな様子だ。スマホを見ていると、「いきむ練習をしましょうね」と助産師さんに言われた。

 いよいよ生まれるんだなと思う。パパに、いっしょに生まれる瞬間に立ち会ってほしい。パパが来るまで、どうか待っていて。祈りながら、頭の中で予習していたことを思い出す。いきみかたは、サンシャイン池崎。
「旦那さん、いらっしゃいましたよ」という助産師さんの声と同時に、LDRのドアが開いた。
 来てくれた! 思ったよりも早くパパが駆けつけてくれた。
「大丈夫?」
 肩で息をしながら、パパが近寄ってくる。わたしの『痛い』という電話の声を聞いて駆けつけてくれたから、不安だったに違いない。でも、わたしはもう麻酔が効いていた。
「うん、大丈夫」
 落ち着いた声で答えるわたしに、ほっとした様子を見せた。
 後から聞いた話によると、そのときのわたしは、いっぱいいっぱいで大変そうに見えたらしい。出産前後に覚えていないことがあると話すと、「そうだろうね、痛くなかったとしてもいきむのにすごい力が必要だし、赤ちゃんを産むというのはすごく大変なことだよね」と労わってくれた。

 パパが来てから、実際にいきんでみた。「サンシャイン池崎のいきみかたがいい」とツイッターでよく見かけて、動画でも予習していた。それを思い出しながらいきむ。
「いい感じだね、すごいじょうずです」と助産師さんに言っていただける。よし、これでいいんだ。
「今、いきんで」
「はい、呼吸してくださいね」
 助産師さんもうまく誘導してくれるので、迷わずにできた。その後、小児科の先生なども集まってきてから、再びいきんでみた。「大変なところはすでに攻略できていい感じ」と太鼓判を押してもらい、部屋の外で待ってもらっていたパパに戻ってきてもらった。
 そこから三回ほどいきむと、するっと、一時五十四分に生まれてきてくれた。

 生まれてすぐに、ベビちゃんは産声を上げた。
「ちゃんと二重ですよ」と誰かの声がする。そこ大事なんだ? と心の中でツッコミを入れた。確かにわたしもパパも二重だけど。二重かどうかを気にされる方が多いのかな。
 お腹の上に乗せてもらうと、体温が伝わってきた。泣いている。生まれてきてくれてよかった。くちゃくちゃだな。悪いところはないんだろうかと思う。赤くて、しわくちゃで、小さくて頼りない。「大丈夫な状態なんですよね?」と確認したくなる。

 体重などを計った後、きれいにしていただいて横に連れてきてもらった。
 写真をお撮りしましょうかと助産師さんが言ってくれたので、お礼を言ってスマホを渡した。横になったまま、ベッドの背中を起こしてもらう。
「あ、ちょっと待ってください」
 眉ティントをしているから、眉毛はバッチリ。髪の毛がぼさぼさなのが気になった。なんとか髪を直そうと手櫛で整える。やっぱり、生まれたときの写真って、ずっと残るから。

 写真を撮ってから、パパとふたりでベビちゃんを見つめた。
「すごいふさふさだね」
 ほんとだ。髪の毛がふさふさ。
「どっち似かな」と言うパパは、涙目になっている。
「鼻のかたちはわたしに似ているね」

 いつもお腹の中でしゃっくりをしていたベビちゃんが、いま、わたしの腕の中でしゃっくりをしている。ああ、ほんとうにきてくれたんだ、と思う。元気に生まれてきてくれた。赤ちゃんがくることをずっと楽しみにしていたから、やっと家族として加わってくれて、心からうれしかった。
「赤ちゃん、まわりかたもじょうずでしたね」と助産師さんに言われる。
 ほんとうに、じょうずにくるっとまわって出てくれた。無痛分娩でうまくいきめるか不安だったけれど、すごくきれいに生まれてきてくれた。
 涙が出てくる。パパと結婚してふたりの生活も幸せだったけど、今まで経験したことのないような幸せを感じた。

秋晴れと笑い声

 生まれた後、三十分ほどしてパパは帰った。それほど長くは滞在できなかったけれど、立ち会ってもらえてよかったなと思う。
 ベビちゃんは検査のために連れて行かれ、出産のときサポートしてくださった助産師さんと二人になったとき、急に部屋が真っ暗になった。今日は計画停電だけれど、予想外のアクシデントらしい。助産師さんがいろんなところに電話して、一時間ほどして復旧した。少し違えば出産のときに電気が止まっていたのかもしれない。すごく運がよかった。

『ミッドタウンの前で娘チャリに2ケツしたヨシヒトに遭遇』
 パパからメッセージがきた。病院からの帰り道、歩いていたら幼馴染に会ったらしい。生まれたんだよと話すパパは、きっとすごく笑顔だっただろう。
『一人ビールしていい?』
『飲んじゃってー!』と答えた。
 パパはお酒が好きだ。わたしが破水して入院しているあいだ、ずっと控えていたんだろうなと思う。離れていてもパパのよろこびが伝わってきて、なんだかにやけてしまう。

 しばらくして、助産師さんがベビちゃんを連れてきてくれた。
 初めての二人きり。そっと抱き上げると、あまい香りがした。肌はやわらかくて、産毛が生えている。小さなからだ、小さな手。指先を触って、あ、と声を上げた。ささくれがたくさんある。
「お腹の中の赤ちゃんにも、ささくれができるんだ……」
 妊娠中からいろんな体の変化があった。指先にささくれができて、嫌だなと思っていたのを思い出す。ベビちゃんもささくれをつくっていたんだな。お腹の中で一緒に頑張ってくれていたんだ。そう思って、じーんとしてしまう。

 涙が溢れる。なんかわたし、泣いてばっかりだ。幸せな気持ちで胸がいっぱいで、涙が止まらない。

 午後の個室は穏やかだった。計画停電で薄明かりの個室に、手に持っている扇風機のブーンという小さな音が響く。真子さまの婚礼の時期で、ヘリコプターの音が聞こえた。

 窓の外には、爽やかな秋晴れが広がっている。
 これまで、戌の日のお参りなども、前後は雨でもその日だけ晴天だった。こういう、晴れた気持ちのよい日に生まれてくる子なのかな。不安なこともあったけれど、こうして結果的にはうまくいくんだなと思う。この子もわたしも、恵まれていて、運がいい。
 笑い声が溢れる家族になりますようにと思う。妊娠中、お風呂に入っているとリビングでテレビを観て笑うパパの声が聞こえて、わたしはそれがすごく好きだった。こんなに笑い声が溢れる家にきてくれたら、きっとベビちゃんも楽しいだろうと思っていた。

 もう、その未来が見える。
 生まれてきてくれて、わたしも、パパも、まわりの人たちも、こんなに幸せにしてくれている。あたたかい気持ちが胸いっぱいに広がる。

「わたしをママにしてくれて、ありがとう」
 ベビちゃんの幸せを祈りながら、秋晴れを見上げた。



この文章は、インタビューの内容をもとに執筆しています。