楓和へ(1通目)の手紙

かんばやし ちえこ さん(30代前半・女性)
顕微授精などの不妊治療を経て妊娠。2020年10月に長女・楓和さんを出産。
想いをうかがった日: 2020/12/21

楓和へ

あなたが生まれて、ニヶ月が経ちました。この手紙を渡すころには、きっと楓和はいろんな経験をして、いろんなことを考えて、生きているのでしょう。楓和と過ごす毎日を、わたしも当たり前のように感じているかもしれません。
でも、今、わたしの腕の中で泣いておっぱいをほしがっている、小さくてかわいい楓和を見ていると、この温もりは奇跡だと思うのです。生まれてきてくれて、ありがとう。あなたの命が宿ったときのことを伝えたくて、こうして手紙を書くことにしました。

卵巣の年齢

あなたのお父さんと結婚したのは、2018年2月。子どもがほしいと思っていたので、自然に授かれるように暮らしていました。
しかし、妊娠したいならば「今日あたりがよい」というタイミングがあります。それを気にすることが、わたしたちにとって少しずつストレスになりました。

子どもがほしいという気持ちはある。でも、夫婦ふたりの時間も大事にして、仲のよい関係で暮らしていきたい。ストレスを抱えてギクシャクしたくはない。言葉にはしなかったけれど、お父さんのそんな思いが雰囲気から伝わってきました。わたしも、そう思っていました。
それに、ふたりとも30歳を過ぎていました。子どもができやすい、できにくいなどの話も知識としてあったので、そもそもわたしたちは子どもを授かれる体なのだろうかという不安がありました。

「病院に行こうか」と言ってくれたのはお父さんでした。すでに病院を調べていたわたしは、「言ってくれた、よかった」と思いました。子どもを授かるためには何か行動に移さないといけないと、心のどこかで思っていました。お父さんも同じ気持ちでいてくれた。それがわかってほっとしたし、とてもうれしかったのを覚えています。
そうして不妊治療の専門医に行ったのが7月。結婚式の一ヶ月後くらいでした。

不妊治療の病院は混んでいました。とりあえず血液検査をしましたが、女性の周期に合わせてたくさんの検査項目をこなしていかなければならないということを知りました。会社を休まないと、病院には来られない。しばらく病院から足が遠のきました。
やっぱり検査結果を聞かなくちゃ。そう思って、再び病院に行ったのが9月。そこで告げられた検査結果に衝撃を受けました。

「卵巣の年齢が42歳」―簡単に言うと、卵子の在庫が少なかったのです。

「卵巣年齢は高いけれど、卵の質は実年齢と一緒。なるべく早い段階で、治療するなり薬を飲むなり、始めたほうがよい」とお医者さんに言われました。これは会社を休んででも検査を進めたほうがいいと思い、三ヶ月ほどかけて一通りの検査を終えました。
お父さんも、「やれることをやってみよう」と前向きに声をかけてくれていました。そうそう、2人で漢方専門の薬局にも行きました。漢方は高価だし、夜中に頻尿で起きる副作用もつらかったから、すぐやめたけれどね(笑)

あまり深く悩まずにやろうと思っていたけれど、そのころは、「妊活」という言葉が軽く聞こえると感じていたなあ。子どもについてパートナーと話し合いましょう、体を冷やさないようにしましょう……。もう、そういう問題じゃない。数値が悪いんだこっちは! という思いでした。

検査を進める中で、お医者さんに「そろそろタイミングを図りましょうか」とも言われたけれど、わたしたちは「進めるなら、次のステップに進めてしまいたいよね」と話していました。
そうは言っても、人工授精に進む場合も、排卵周期に合わせる必要があります。急に「あした検査です」と言われる場合もある。会社を休めない今、進めるのは難しいなと感じました。
いったん休憩しよう。子どもを望むことを休憩しよう。そう決めたのが、2018年の12月でした。

採卵

再開したのは、約半年後。通える場所がよいと思って、会社の近くで遅くまでやっている病院に2019年5月に転院しました。次のステップに進めたいという気持ちだったので、前の病院の検査結果を持って行き、すぐに人工授精をスタートしました。

「もう卵を採ってください」とお願いしたのが、2019年7月。お父さんに「病院に行こうか」と言われたあの日から、一年が経過していました。

採卵は、7月と9月に行いました。卵は、一般的には十数個採れ、そのうち受精がうまくいく確率は半分だと言われています。わたしは、一回目の採卵で採れたのは六個でした。多いと二十個採れる人もいるのに、やっぱりわたしは卵の数が少ない。しかも、そのうち凍結できる状態だったのは、一個でした。たった一個だったの!

充分に凍結できる状態だった一個を除くと、あとは未熟な卵でした。それでもわたしは、「取っておいてください」と伝えました。採れた数が少ないなら、少しでも可能性がある卵は残しておきたかった。だって、一個だけなんて、悲しすぎるじゃない? 「もし未熟でも、育つ可能性があるなら残しておいてください」と伝えて、未熟な卵のうち一つを凍結してもらいました。
二回目の採卵では、三個採れて一つ凍結。こうして二回採卵をして、凍結できた卵は三個になりました。

「まだ採りますか?」とお医者さんに聞かれましたが、妊娠する体も若いほうがいいと聞いていたので、凍結した卵をお腹に戻していくことにしました。元気な卵から、一つずつ。
一つめの卵は、箸にも棒にもかからずだめでした。二つめの卵は、妊娠ともいえる検査結果が出て着床を進める薬を飲んだのだけれど、一週間後に行ったら化学流産をしてしまっていました。
ああ、ニヶ月連続でだめだったなあと思って、年末年始になったこともあり、ちょっとお休みしました。

そして年が明けて2020年の2月。ラスト一個、未熟だけど凍結したあの卵を、お腹に戻しました。

それが、楓和、あなたです。

あのとき、わたしが「取っておいてください」と言わなかったら、お医者さんは残しておいてくれなかったでしょう。あのときの自分に感謝しています。そうじゃなくちゃ、楓和は生まれなかったから。

楓和のお父さん

ここまでで、二年近くかかっています。わたしとお父さんが、どれだけ楓和のことを待ち望んでいたか、伝わるでしょうか。

わたしたちはシェアハウスで出会って結婚していて、共通の友人どうし結婚したカップルがまわりにも数組いました。わたしたちが治療や検査をがんばって進めている中、彼らは次々と妊娠しました。
ああ、いいなあ。と思っていた。うらやましかった。友人カップルと四人でご飯に行っても、妊娠の話に笑顔がひきつってしまう。素直に喜べない。喜びたいのに、喜べない。そんな自分が悲しくなって、寝る前に泣いた夜もありました。

お父さんは、そんなわたしにいつも寄り添ってくれていました。

ある日、「あとから生まれてきた子がうらやましかったよ、僕は」と言われました。お父さんは、九人の従兄弟の中でいちばん上。いちばん上が嫌で、下の子になりたかったそうです。だから、妊娠したという話に追い詰められているわたしを見て、「そういうのもありなんじゃない?」と話してくれました。「僕たちにとって、シェアハウスの友達が家族のようなもの。僕たちの子が、先に生まれた子たちに可愛がってもらえるような生まれかたをしても、いいんじゃないかな」って。わたしも長女だったから、そういうのも確かにいいな、と思いました。
お父さんのその言葉で、ふっと肩の力が抜けた気がします。この人と結婚してよかったと思ったし、授かるのをゆっくり待とうかという気持ちにもなれました。

仕事終わりに二人とも行ける病院に転院してからは、検査だけのときも結果を聞くときも、お父さんが一緒にいてくれました。
女性ばかりが一人で病院行かなきゃならないという話も聞く中、お父さんは寄り添ってくれたなと思います。とてもうれしかった。支えられた。楓和のお父さんは、そういうお父さんなんですよ。

顕微授精という妊娠のかたち

今思えば、「病院に行こうか」という言葉も、勇気を出して言ってくれたのだろうなと思います。お父さんには、体外受精で二人授かっている友人夫婦がいました。大丈夫なんだ、そういう手段があるんだっていう気持ちが、お父さんにもあったのだと思います。そうでなかったら、病院に行ってみようと言わなかったかもしれません。

わたしも、自分が治療や検査を進めて知ったことがたくさんありました。当事者になって初めて、不妊に悩んでいる人の気持ちがわかるし、通院しながら仕事をする人の大変さもわかる。

楓和も、女の子に生まれたから、何か不安を抱える日がくるかもしれません。でも覚えておいてほしいのは、医学の力を頼って妊娠するのは悪いことではないということ。自然に妊娠するのを望む人がいるかもしれないけれど、それがすべてではないの。

治療を始めたとき、子育てしている友達に話したら、「あの子は凍結卵で生まれた、というような話が日常会話で出てくるから大丈夫だよ」と言われてびっくりしました。

すでに不妊治療という言葉が、世間に知られてきています。楓和が大人になるころには、病院に通って赤ちゃんを授かるということがもっと一般的になっているかもしれません。一般的じゃなくても、いろんな方法があります。それをどうか知っていてほしい。
顕微授精だって妊娠のひとつのかたちです。女性も働いている中、最初から考えてもいい手段だと思います。わたしが大学生のときには、卵子凍結という方法があるなんて知りませんでした。もしかしたら、知っていたほうがよかったかもしれません。二十歳のときの卵と、30歳の卵は、質が違います。妊娠しやすい状態で体の一部を保存するのが一般的になったら、年齢を気にせずに思い切り、やりたいことに打ち込めるでしょう。

採卵して取っておいてほしいと思った卵から、あなたが産まれてきたという奇跡。そのときの自分にも感謝したいし、そのままお腹に留まってくれたあなたにも感謝したい。

忘れられない日

そういうわけで、楓和、あなたは命になったのです。あの日のことを、わたしもお父さんも、きっと忘れないでしょう。

あの日、「これがだめだったらもう一度卵を採ろう」と、お父さんと決めていました。だめだったら次また行こうねって。すでに二回だめになっていたから、過度な期待をしていませんでした。妊娠していなかった場合のほうを考えていた。

病院で採血をして一時間半、検査結果を聞きにお父さんと診察室に入りました。
担当の先生が「ふんふん、こういう経過で、採卵して、このときの卵をこの日に戻したのね」と言い出しました。
わたしはそのまま先生の話を聞いていたのだけれど、お父さんが先生の手元に10月22日って日付が書かれているのを見たの。これ、妊娠しているんじゃない?とお父さんは先に察知していたそうです。

「着床して妊娠していますね」と告げられたときは、ふたりして「あっ……そうですか!!」と、ぽかんとしてしまったよ。うれしかったのと同時に、もうお酒飲めないんだ、って(笑)
ちょうど、卵を戻す直前に家族旅行をしていました。両家の両親と、わたしたちと。たらふく食べて、たらふく飲んだ。その翌日にお腹に戻したの。だから、着床したと聞いて「ああ、お酒飲んでいてよかったね」などと話しました。

実感はじわじわ湧いてきました。家族に報告して、自分で「妊娠したの」と言いながら、ああほんとうに妊娠したんだって、じわじわと。それが大きな喜びに変わっていきました。
たぶん、わたしよりも、お父さんのほうがうれしかったと思います。検査結果を聞いたときのお父さん、すごく喜んでいた。「たらこパスタを食べて帰ろう!」って言って、パスタ屋さんに寄って帰りました。お父さん、たらこパスタが好きだからね。
その後も、「体を冷やしちゃだめだから腹巻買ってきた!」とか、「そんなに無理して予定を詰め込まないで」などと、心配性になっていましたよ。
これからどうするんだろう。何が起きるんだろう。妊娠後のことなんてそれまで考えていなかったから、まだぼやーっとしていたな。

このあと楓和が産まれてくるまでも、またいろんなことがありました。その話は、また別の手紙で。

楓和、生まれてきてくれてありがとう。


お母さんより



この文章は、インタビューの内容をもとに執筆しています。