楓和へ(二通目)の手紙

かんばやし ちえこ さん(30代前半・女性)
顕微授精などの不妊治療を経て妊娠。2020年10月に長女・楓和さんを出産。
インタビュー: 2020/12/21

これまでの記事
かんばやしちえこさんの手紙①

楓和へ

一通目の手紙を、もう読んでくれましたか。楓和が命になるまでのこと。少し驚いたかもしれませんが、お父さんとお母さんにとって、とても愛しくて大切な思い出です。楓和も自然に受け止めてくれているとうれしいな。
この手紙では、その続きのお話。楓和が生まれてきた日のことを書こうと思います。

たらちゃん、たらさま、たらこ。

2020年2月。妊娠していることがわかり、翌週からエコー検査が始まりました。内診室で横になってドキドキしながら画面を見ていると、映し出されたのは、ゴマ粒のような小さな点。赤ちゃんを包んでいる胎嚢です。ぱこぱこと動いているのも見えました。

小さな楓和の様子がわかってうれしくて、でも不安もありました。妊娠したとはいえ流産の可能性もゼロではありません。まだいるかな、本当にいるかな、大丈夫かな。お腹の中の楓和を気にかけながら過ごしては、毎週木曜日、仕事終わりのエコー検査で「今回もちゃんといた、よかった」と胸を撫でおろす。そんな日々を送っていました。

妊娠10週ほどで、楓和は小さな魚のようなかたちになりました。エコー写真を持ち帰ってその形をお父さんと2人で見たとき、「ああ、お腹にいるんだ」とあらためてうれしくなりました。

お腹にいる楓和のことを、わたしたちは「たらこ」と呼んでいました。わたしがお父さんからチーたらと呼ばれていて、チーたらの子だから、たらこだねって。妊娠初期は、ほんとうにたらこのようなかたちをしていて、かわいかったな。
たらこという胎児ネームを家族にも伝えて、みんなで「たらちゃん」「たらさま」って呼びかけていました。お父さんは、お腹が大きくなる前から毎日「たらちゃん、元気にしてるかーい?」と話しかけていたよ。聞こえていましたか? 妊娠後期には絵本も読みました。一度しか読んでいないので、これはさすがに覚えていないかな(笑)


楓和が大好きだったのはグリーン車。当時わたしは茅ヶ崎から都内に通勤していました。朝の上り電車は混雑するし、新型コロナウイルスの感染も心配な時期だったので、「お金に換えられないから」とお父さんの気遣いで毎日グリーン車で通勤しました。
胎動を感じるころになると、グリーン車に乗るたびお腹の中で楓和が動くようになりました。乗った瞬間に、ぽこぽこって動くので、「グリーン車が好きなの?」とちょっと楽しかったよ。

月明かり、茅ケ崎の海

そんなふうに楓和の成長を感じながら8か月が過ぎました。出産予定日は10月22日。10月に入るといつ生まれてもよい状態になり、大きく膨らんできたお腹を撫でて、その日が訪れるのを楽しみに待っていました。そろそろかなと思いながら過ごしては週末がくる、そのくり返し。もう少し待ってねと言われているようで、「たらこが週末を楽しませてくれているね」とお父さんと話していました。

でも、10月22日を過ぎても楓和はお腹にいました。予定日になっても生まれてこない。なぜ? 涙が流れました。なんでだろう、大丈夫なのかな、無事に産まれてくるのかな。いつ生まれてもおかしくないという緊張と、楓和の様子も自分のからだもわからない不安で、胸がいっぱいでした。

再び週末がきました。10月26日、妊娠40週5日の妊婦検診。エコーで楓和の様子を確認したお医者さんが「前の検診から体重が増えていません。成長が止まっている可能性があります。あまりよくない状態なので計画分娩をしましょう」と言いました。明日なら入院できるけど、と言われて、27日の午後に入院する予定になりました。週数の近い他の妊婦さんはもう出産していて、「ああ、とうとうわたし一人だ。出産がこれからなのは」と思いました。


入院は急に決まりましたが、その日はもともと出産に備えておばあちゃんが来ることになっていました。入院前の最後の晩餐は何にしようか。お父さんとおばあちゃんと話して、近所の中華屋さんでたくさん食べました。

10月でもまだそこまで寒くない、心地のよい夜でした。お腹いっぱいになったわたしたちは、腹ごなしをしようと夜の海へ散歩に行きました。
月明かりの下、波の音を聞きながら穏やかな気持ちで歩きました。無事に生まれてくるといいね、と話しながら。

広く遠くまで見える、茅ヶ崎の海。お腹の中にいる楓和とたくさん散歩した海です。

いつか茅ヶ崎までドライブしたら、きっと楓和にも言うと思います。ここをたくさん歩いたんだよって。葉山は入り江のような小さな海岸がたくさんあるけれど、茅ヶ崎の海は広いの。散歩していて気持ちがよくて、生まれてくる楓和のことや仕事のことをぼーっと考えながらいつも歩いていました。
海の散歩は、これが最後かもしれない。お父さんとおばあちゃんと歩きながら、ぼんやりと思いました。

陣痛がきた!

その夜、生理痛のような鈍痛がきました。ちょっとお腹が痛いなと思いながらお風呂を済ませて、もう寝ようとベッドに入った23時半ごろ、「いったーい!」と声が出てしまうくらいの激痛に襲われました。あまりの痛さに「ちょっと、お腹が痛いんですけど」とお父さんに訴えるほどでした。

夜中0時にも激痛。そこでようやく、これは陣痛だと気づきました。入院を待たずに、もう痛くなっている。少し焦りながら、おばあちゃんを起こしました。お父さんがスマホでビデオを撮り始めたのもその頃です。わたしが痛がるたびに「〇時〇分、痛そうです」と様子を残していました。

陣痛は、初めは30分間隔、だんだん20分間隔になりました。痛みの合間に入院準備をするのだけれど、あまりに痛くて、陣痛がきているあいだは動けません。夜中1時までのあいだに、10分間隔になりました。病院には、陣痛間隔が5分ほどになったら電話をするように言われていましたが、早めに電話することにしました。

電話に出た助産師さんには、もう少し様子を見てもらえないかと言われました。 入院したらコロナで立ち会いもできないし、家族にも会えなくなる。そばにいたほうがいいんじゃないか、と。
確かにそうかもしれないと思って電話を切ったものの、陣痛間隔はどんどん狭くなってしまって。やっぱり無理、一度診てもらおうと思いました。再び電話をかけて、入院準備をして病院へ向かうことになりました。


病院まで車で5分。おばあちゃんにもいっしょに乗ってもらい、夜中の1時半に病院に着きました。お父さんには下の駐車場で待っていてもらい、わたしだけ分娩室で診察を受けました。

「ああ、たしかに進んではいるね、子宮口が開いている。でも4センチくらい。朝は何センチだった?」
「3センチでした」と答えると、「どうする? 一回帰る?」と聞かれました。帰ってくださいじゃなくて、わたしが決めるのか。どうしようかと一瞬考えましたが、すでに陣痛は5分間隔だったので病院に残ることに決めました。出産まで長くなるかもしれないと思い、おばあちゃんとお父さんには家に帰ってもらいました。

夜中2時。陣痛は3分間隔になりました。それでも、初産だからまだかかると助産師さんは考えていたのだろうと思います。その日は計画分娩の人が立て込んでいたようで、わたしは内診のあと、分娩台の上で40分ほど待たされました。

やがて案内された控室は、真っ暗な和室。陣痛に耐える時間です。陣痛は本当に痛くて、これがいつまで続くんだろうと思いました。助産師さんに「何かあったらナースコールで呼んでください」と言われ、何かって何? どれくらいで? という気持ちでした。「どういうときに連絡したらいいですか」と聞いたら、「耐えられない痛さになったら」という答え。そうして助産師さんは部屋から出ていき、わたしひとりが残されました。それが2時半ごろでした。

オンラインで通話してもよい病院だったので、すぐにLINEのビデオ通話をお父さんにつなぎました。画面越しにわたしの呻き声を聞きながら応援してくれる、お父さんとおばあちゃん。「痛いーううー」とわたしが呻くと、お父さんは「ああ痛いよね、痛いよね」って。共感してくれていたのだろうけれど、痛いって言われなくてもこっちは痛くて。「痛いって言わないでくれる!? もうちょっと静かにして!」と言ってしまいました。そこから何も言えなくなって困ったと、後日お父さんに言われました。

がんばれ、たらこ。

暗い静かな部屋にひとり。自分の呻き声が部屋に響いて、痛くてつらくて、果てしなく続く時間に思えました。一時間ほど悶え苦しんだあと、もうだめだと思って助産師さんを呼びました。

「もう6センチに広がっているね」とサブの助産師さんに言われ、動けるうちに分娩室に移動することになりました。メイン担当の助産師さんにも「進んでいますね、でももう少しいきみ逃しましょう」と言われました。時計を見ると3時半くらいでした。

そのあいだもビデオ通話を続けていました。明るい分娩室に移り、お父さんもおばあちゃんもこちらの様子が見えるようになったと思います。そこから30分ほど、いきみ逃し。力を入れないようにして、何度も襲ってくる痛みに耐えます。そろそろいきもう、となったのが4時くらいでした。

いきむのって、すごく難しいのね。痛みに合わせて力を入れても、よくわからなくて。「こっちの方向に!」と手を入れて指示されても、そっちってどっち? という状態でした。何回かいきんで、ようやく方向がわかるようになりました。

初めのうちはがんばれていたのですが、だんだんつらくなってきました。徹夜で痛みをこらえながら力を入れるのです。痛い、眠い、力を入れなくちゃいけない……。意識も朦朧としてきました。


でもその瞬間、ふっと頭をよぎったのは、赤ちゃんも痛い思いをしながら出てくるんだということでした。「がんばれ」と思わずたらこに声をかけると、助産師さんも「そうだよお母さん、赤ちゃんもがんばっているよ、えらいね!」と言ってくれました。

がんばれ。がんばれ。朦朧としながらもう一度いきむと、「頭出てきたよ、触ってみる?」と言われました。えっ、頭? 手を伸ばして触ってみたら、ヌルっという感触。ほんとうに頭が出ていました。
ああ、出ている。確かにいる。あとちょっと、がんばる! そう思って、痛みに合わせてふうっと力を入れました。
「うーんて声をだすと力が入らないから、声を出さずにいきむんだよ、がんばれ」と言われ、お腹の下のほうにぐっと力を入れます。

4時半ごろでしょうか。「お医者さん呼んできて!」と助産師さんの声が聞こえました。
助産師さんの判断を尊重する病院だったので、その段階ではまだ分娩室に助産師さん二人だけでした。でも、会陰切開はお医者さんにしかできません。呼ばれて登場したお医者さんは、普段のコンタクト姿ではなく眼鏡をかけていて、寝ぼけ眼で。いま起こされたでしょ、と思わず心の中でツッコミを入れてしまうような姿でした。

切ってもらっても、楓和の頭が大きかったようで骨盤に引っかかりました。いきんで、徐々に骨盤を開かせて出そうとします。出してあげたいけれど、楓和も出てこれない。その状態が1時間弱続きました。

骨盤に当たる、ごつんごつんという感覚。ああ、ぶつかっている、とすごくわかって、それで余計に「がんばれ」って思いました。がんばれ、たらこ。がんばれ。だいじょうぶ、もう少しだから。がんばれ……!

愛しい温もり

明け方4時56分。楓和が生まれました。

お父さんとおばあちゃんも、その瞬間をビデオ越しに見ていました。わたしの右側にスマホのスタンドを立てていたのだけれど、助産師さんが向きを調整して、楓和を取り上げた様子を映してくれました。

おばあちゃんが泣いている様子が、なんとなく見えました。後日聞いたら、楓和が生まれたとき、お父さんのほうが大号泣だったみたい。パソコンの前に正座して画面を見ていたのが、ひっくり返っておんおん泣いて。そんなお父さんの様子を見て、おばあちゃんは涙が引っ込んでしまったそうです。


生まれたばかりの楓和を、わたしの胸に置いてもらいました。ああ、あったかい。ちゃんとここにいるんだ。涙は流れず、ただじんわりと感動が広がってゆきました。この温かさ、伝わるかな、伝われー。画面の向こうのお父さんやおばあちゃんに顔を向けながら、楓和のじんわりとした温かさを全身で感じていました。

抱きとめた楓和は、白い布のようなものに包まれていました。肌に感じるあたたかさ。出てくる前に触った頭にはやはり髪の毛が生えていて、ほんとうに赤い。真っ赤というか、赤黒いというか。ああこれが赤ちゃんなんだ、と思いました。


「楓和です」

画面の向こうで、お父さんの声が聞こえました。目に涙をいっぱい溜めたまま、あなたの名前をおばあちゃんに伝えていました。

みんなに愛されて生まれてきた

楓和は、家族みんなで考えた名前です。お父さんとお母さんだけでは決められないと思ったの。楓和を授かるまでに、病院に通ってお金もかかったし、いろんな場面で家族に支えてもらいました。2人だけで授かった子ではないと感じていました。

生まれてくるまでのあいだも家族に楽しんでほしい。どんな子が生まれるんだろう、どんな名前がいいだろう。そうやってわくわくする時間を共有したい。そう思って、家族みんなから名前のアイデアをもらうことにしました。

なぜ名前を考えてもらいたいのか伝える手紙を書き、小さな折り紙を同封しました。「これに書いて返送してください」と両家のおじいちゃんおばあちゃん、そして楓和のひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんにも送りました。

ピンとくるものがなければ自分たちで考えようと思っていましたが、集まった名前はどれもすてきで、とても悩みました。折り紙を机にずらりと並べては、ああどうしようねとお父さんと何度も話し合いを重ね、ようやくあなたの名前が決まりました。「楓和」。両家のおばあちゃんが考えてくれた名前から、漢字を一文字ずつ取って名づけました。

名前の書かれた折り紙は、いつか楓和に渡せるように大切に残してあります。家族みんなで名前を考えて、みんなが楓和が生まれてくるのを楽しみにしていました。楓和は、家族みんなに愛されて生まれてきたんだよ。


今になって思えば、いろいろなタイミングが重なったその日に、楓和は生まれてきてくれたのだと思います。
出産予定日を超過して不安でしたが、出産の前におばあちゃんが来てくれて心強かったし、わたしとお父さんが好きな中華屋さんに行くこともできました。それを楓和は待っていてくれたのかなと思います。そして、陣痛がきたのは計画分娩予定日の前夜。誘発剤を使わずに、楓和が自分の力で生まれ出ようとしてくれたのが、わたしはとてもうれしかったです。

楓和という名前は、陣痛がきたときにすでに決まっていました。10月27日。ふうな。自分で27日に生まれてきたのかな、と後から気づいて驚きました。


楓和が生まれた日が特別だということは一生変わらないし、忘れないと思います。でも、毎年誕生日だけが特別かというと、そうではないような気がします。

楓和がいれば、何気ない日常すらも愛おしくなります。特別をつくらなくていい。日々の暮らしを大切にしたい。楓和にも、そう思って生きてほしいなと思います。たとえばお母さんのお味噌汁はこういう味だったなとか、お父さんはお風呂で歌っていたなとか。そういう日々の姿を目に焼き付けていきたいと、わたしは思うの。

日々を大切する。やりたいと思ったことをやる。そうして、自分の人生は自分で歩んでほしいと思います。
あなたが未来を選んでゆく姿を、わたしは見守っています。


お母さんより



この文章は、インタビューの内容をもとに執筆しています。